正直に気持ちを伝える練習をしないとやばいなと思った
はじめに
私は見栄っ張りな人間だと思う。
よく分からないことや上手く言葉にできない時はコメントしない、または、なんとなくそれっぽく聞こえるような言葉で誤魔化す。
「馬鹿に見られないように」
そう考えていることが多い。それは現在進行形で、背伸びしたり見栄っ張りしてばかりだ。
instagramやfacebookでは、どちらとも取れる短いコメントで投稿。
twitterは馬鹿がバレそうなので、あれこれ考えすぎて自由につぶやくことができないので正直苦手だ。
余計な一言や、無知を晒して炎上をしている人を見ると、
「書かなきゃ叩かれることもないのに」と思っている。
とにかく過剰なほどに、稚拙で浅はかな自分がバレないように、薄っぺらさが漏れ出ないように厳重に警戒していた。
気持ちを表現する言葉が浮かばない
しかし、ふとしたことで自分の気持ちを表現することがとても苦手だということに気づいてしまった。
ここ最近、喜怒哀楽を揺さぶられるようなことが山ほどあり、それについて話すことや文章にする機会が多かった。
怒りや悲しさについては、時には笑いや自虐も交えながら、批判や不満を流暢に言葉にすることができた。
しかし感動したときや感謝を伝えたいときなどポジティブな感情ほど、薄っぺらく、稚拙な言葉しか浮かばず、筆が止まってしまうのだった。
自分か書いた「感動しました!」「本当にありがとうございました!」の羅列に、ため息が出た。
お礼のメールなんかに関しては、それでは文章にボリュームが出ないので「感謝 手紙」「お礼 手紙」などの検索ワードをGoogleに入れ、なんとなくそれっぽく見えるように成形して送った。
オーバーにしないようにすると途端に難しくなる
高校生くらいまでは、作文が褒められたり賞を取ることが多かったし
おしゃべりなので、飲み会なんかでは饒舌に「この間あった面白い話」を話すことができていた。
そのため、まさか自分が「気持ちを正直に表現することが苦手」だと思ったことはなかった。
得意なのは、オーバーに脚色して、面白いところだけ膨らます。
そうしているうちに、
自分の気持ちのメモリがどれくらいなのか、
本当に嬉しいと思っていたのか、悲しいと思っていたのか
今の気持ちは……
よくわからなくなることもあった。
脚色した言葉は高校生の時は通用しても、大人になってみるとあまりにも陳腐だった。
馬鹿を隠そうとして、思いっきり馬鹿を晒しているような、そんな気もした。
自然体な人になりたいのかもしれない
正直じゃないことの最大のデメリットはとても疲れることだ。
人と会うたびに、よく見せようと頑張りすぎてドッと疲れる。
特に前述の色々あった喜怒哀楽の中に巻き込まれた時は疲労困憊だった。
人と会いたくない、会社に行きたくないと毎日思っていた。
それもこれも、自分の気持ちを作りこまなければいけなかったからだったような気がする。
「馬鹿に見られない」ように、
見栄を張って、背伸びをして、知った風な顔をしてきたけど、
こてんぱんにボコボコに疲れて、ようやく「馬鹿に見られてもいいかも」と思えた。
見栄を張ったり、背伸びしたり、人にどう見られるかを気にするレベルを少しづつ下げていきたい。
そして、いつかは「自然体な人」になりたいのかもしれない。
おまけの補足
とはいえ、こういった「正直になりたい」という文章を
実名で持っているfacebookやinstagram、noteでできないのが見栄っ張りだし、全然正直じゃないなと自分で思う。
それは今の段階では、「まだ」恥ずかしくてできない。
親しい人、仕事でつながりの人、自分を「使える人間」かどうかを、頭のどこかでジャッジしている人たちに自分の実寸大を見せるのはかなりハードルが高い。
ここから少しずつ正直になる練習をしていき、自信がついてきたらfacebookやinstagram、noteでも正直に発信してみたい。
まずは、instagram、facebookでの投稿では、「どっちとも取れる便利な言葉」を避けて、正直な気持ちを表現するように心がけたい。
それから、ROM専だったtweetも復活させてみたいと思う。